aboutやまがた舞子とは
ごあいさつ
初代山形藩主・11代山形城主 最上義光の時代に、商工業・交易など飛躍的な発展を遂げた山形。とくに特産の「紅花」はその質の良さから「最上紅花」と賞賛され、大きな富と文化をもたらしました。
地方の商業都市として発展した山形には明治以降、料亭文化とともに花柳界が誕生。“おもてなし文化”が栄え、多くの人を魅了します。
時は流れ、世が移り変わっても、人々に愛され育まれた山形の“おもてなす心”は変わらず、更に日々の郷土芸能の技量向上に対する芸妓の熱意により、今日の山形芸妓文化が受け継がれてきました。
私たちはこの心を大切な郷土遺産として受け継ぎ、その火を灯し続けるため 若き後継者とともに将来へ伝え、山形の文化の飛躍に努めます。
山形伝統芸能振興株式会社
代表取締役社長 平井 康博
やまがた舞子の誕生
山形の芸妓文化は明治維新後、定住した最後の藩主水野家藩士による料亭創業に始まり、全国の文人墨客や政財界の要人からも高い評価を受けながら、街の近代化とともに繁栄しました。
その最盛期は大正から昭和初期で、明治44年に起きた市北大火の復興記念として開催された「奥羽6縣聯合共進会(大正5年)」での活躍で一躍注目を浴び、大正12年に起こった関東大震災で、東京から山形へ疎開した歌舞伎役者などによる芸妓置屋の開業を経て、「全国産業博覧会(昭和2年)」を機に一段と賑わいを極めました。その頃、料亭の数は大小合わせて30軒を超え、芸妓も150名を数えました。
時代の変遷とともに料亭と芸妓の数は徐々に減少し、平成になる頃には、料亭6軒、芸妓も10名程度となり、深刻な後継者不足に陥り、この地方文化は存続の危機に直面することになりました。
そこで、山形芸妓の後継者育成のため、平成8年2月に山形商工会議所や山形市観光協会が中心となり、山形市内企業の出資・協力と、山形芸妓置屋組合と共存する形で、「山形伝統芸能振興株式会社 (愛称:やまがた紅の会)」が会社組織として設立され、「やまがた舞子」が誕生しました。
もともと山形芸妓文化に「舞子」という呼び名はなく、同じ立場のものは「半玉」と呼ばれており、新たな呼び名として創作したものです。
現在、「やまがた舞子」は踊りや唄・三味線など日々稽古しながら、山形芸妓、やまがた芸子と共に料亭のお座敷、ホテルの宴席をはじめ、国内外の観光イベント、キャンペーンにも出演して、山形の観光の顔として活躍しております。
山形芸妓、芸子、そして舞子
やまがた舞子には山形芸妓文化を継承する目標であり、頼りになる先輩であり、一緒に働く仲間がおります。
それぞれ所属と役割があります。
明治から続く山形の花柳界を引っ張り、
円熟した演舞や演奏などでおもてなしをいたします。
所属: 山形芸妓置屋組合
三味線の経験者や「やまがた舞子」の卒業生がなっており、艷やかな演舞や演奏などでおもてなしをいたします。
所属: 山形伝統芸能振興株式会社
山形伝統芸能の継承と振興の若き担い手として、最前線でお客さまのおもてなしをいたします。
所属: 山形伝統芸能振興株式会社
やまがた舞子グラフィティ
歴代のやまがた舞子たちを集合写真とともに歴史を振り返ります。